立法権の尊重と、それを無視した昭和35年判決

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私としては記事内容に賛成はしないが、私や業界にとって合憲限定解釈に関する重要な知見があると思われるのでメモとして残しておく。

 

一票の格差」訴訟で、最高裁が「先例」として引き継いでいるのが、1964年2月の大法廷判決への「補足意見」だ。この判決と「補足意見」は、最初の「一票の格差訴訟」で出されたものである。

「4.09倍」の格差のもと実施された参議院選挙に対し、最高裁は「合憲」の判断を下しているが、その判決の主旨を補う「補足意見」を最高裁判事だった斎藤朔郎が書いている。

斎藤は、その中で「政治的紛争から完全に離れること、政治的決定に際しての政治的勢力の衝突の渦中に身を投じないことが必要である」「司法審査の範囲を拡大するよりも、『司法権の効果的な実行に内在する本来的な限界』を守っていくことの方が、むしろ肝要」と述べている。

 

というわけで裁判所サイトの判決文へのリンク。

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=53126

 多数意見が、各選挙区に如何なる割合で議員数を配分するかは、立法府である国会の権限に属する立法政策の問題であるとしている点は、私にも異論がないところである。しかし、多数意見が、現行の公職選挙法別表二が選挙人の人口数に比例して改訂されないための不均衡が所論のような程度ではなお立法政策の当否の問題に止るとして、例外の場合すなわち、選挙区の議員数について選挙人の選挙権の享有に極端な不平等を生じさせるような場合には違憲問題が生じ、したがつて右別表の無効を認める場合のあることを示唆している点に、私は危惧を感じる。

 

 いわゆる砂川事件の大法廷判決(昭和三四年(あ)第七一〇号同年一二月一六日、 刑集一三巻一三号三二二五頁)が「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて」といつているのも同様な考え方であると思うが、ある事項を原則的には裁判所の司法審査の対象から除外しながら、例外的にはその事項につき司法審査のおよぶ場合のあることを留保していることは、司法権の権威を守り、裁判官の職務に忠実ならんとする熱意の現われともいうべきものであつて、それは延いて国民の基本的人権の擁護に奉仕するものである。この心構えが、裁判官にとつて必要なことはいうまでもないが、実際問題と して、そうすることによつて果して所期の如くに司法権の権威を高め、国民の信頼をえることができるであろうか。

私は、この点を再考してみる必要があると思うのである。アメリカ合衆国最高裁判所が一九六二年三月二六日にしたBaker V .Carr事件の判決についているフランクフルター判事の長文の少数意見を通読して、その感を一層深くした。(以下の記述のうちで、「 」をもつて表示してあ る部分は、同判事の意見またはその引用の先例中の文句を意訳したものである。)  「財力も武器も持たない裁判所の権威は、最終的には、国民の道義的な信頼によつて支えられているのである。そのような国民感情を培養するには、裁判所は、事実上も外観上も、政治的紛争から完全に離れること、政治的決定に際しての政治的勢力の衝突の渦中に身を投じないことが必要である。」

 

司法審査の門戸を広げるだけでは、司法権の権威を必ずしも高めることはできない。司法審査の範囲を拡大するよりも、「司法権の効果的な実行に内在する本来的な限界」を守つていくことの方が、むしろ肝要であらねばならない(拙稿・法と国家権力、法哲学年報一九五五 年一六頁参照)。

 選挙区別の議員定数を決定する要素は、多数意見も説示しているように、選挙人の人口比率以外の幾多の要素をも包含している。そして、それらの諸要素を考慮に入れて判断するには、「司法的判断のための満足すべき基準」がないということに、 留意しなければならない。フランクフルター判事は、「かかる問題の決定権を裁判所に与えることは、裁判官に神の力を与えようとすることである。」とまで極言している。「わが憲法の下では、すべての政治的な過誤や立法権の望ましからぬ行使に対し、常に司法的救済が与えられるものとは限らないということを、卒直に認識しなければならない。」「民主社会においては、国民の代表者の良識を呼びさます国民の良識に、救済を求めるより外はないのである。」ということで満足すべき場合もあるのでないだろうか。

 

 多数意見は、選挙区の議員数について選挙人の選挙権の享有に極端な不平等を生じさせるような場合、といつているが、具体的に如何なる事態を指すかは明瞭でない。おそらくは、将来においても、この場合に該当するとして選挙が無効とされる ようなことは、容易に起るまいと思う。私は、世論の力、立法機関や行政機関の良識を、もつと信頼してよいのでないかと考える。明確な基準のない場合に、判決で違憲とすべき場合のあり得ることを約束してみても、それに当るものとして提起される訴訟は、基準に達しないものとしてすべて排斥されてしまうのではなかろうか。 それでは、「将来を約束する言葉の響きを与えながら、期待をふみにじる」結果になり、かえつて国民の司法に対する信頼を裏切ることにならないかを、私は危惧する。

 

 かりに、公職選挙法別表二が憲法の平等条項に違反することによつて、選挙が無効と認められた場合には、如何なる事態が発生するかを考えてみるに、「その究極の結果は、国民から現在の立法機関を奪つてしまい、しかもそれに代る新しい立法機関を選出する方法もなく、ついに国家の機構の破滅を招来」しかねない。参議院の半数改選議員の選挙が全部無効となるような事態が発生すれば、国会の機能は全く停止されてしまうであろう(国会法一〇条参照)。  そもそも、公職選挙法二〇四条の訴訟は、本来は、選挙の管理執行上の過誤を是正することを目的とする制度であると考える。さればこそ、右訴訟の結果による再選挙は、これを行うべき事由が生じた日から四〇日以内に、行わなければならないとされている(公職選挙法一〇九条四号、一一〇条二項、三四条一項参照)。

本件別表二が違憲無効と認められた場合に、果して四〇日という短期間内に、別表の改正が行われることを、期待できるであろうか。それができなければ、無効の選挙をくり返えしていくより仕方がない。右二〇四条の規定を合理的な範囲内で拡張解釈することは差し支えないとしても、国会と裁判所との間において、裁量判断にくいちがいの生じるおそれの多分に存する問題についてまで、司法的解決を与えんとすることは、拾収すべからざる混乱を招来するものと思う。かように考えてくると、 右二〇四条の訴訟で、本件事案におけるような請求を求めることの合法性に、私は強い疑問をいだく。  

 

選挙制度に関する裁判なので、単純に立法裁量権の尊重、と単純に解釈してはいけないのだろうが、そんな感じである。

 

なお、昭和35年判決に関わった裁判官のうち、反対意見だった石坂修一裁判官、多数意見だった奥野健一裁判官の2人がこの裁判にも関わっている。

 

合憲限定解釈から処罰範囲を広げた例としては全農林警職法事件がある。

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50906

この判決の追加補足意見は読んでおこう。

(二)つぎに、多数意見は、国公法110条一項一七号について、福岡高等裁判所判決(昭和四一年(う)第七二八号同四三年四月一八日判決)が示した限定解釈は犯罪構成要件の明確性を害するもので憲法三一条違反の疑いがあるというが、われわれは、右の限定解釈は明らかに憲法三一条に違反するばかりでなく、本来許さるべき限定解釈の限度を超えるものであるとすら考えるものである。すなわち、同判決は、国公法の右規定を限定的に解釈して、争議行為が政治目的のために行なわれるとか、暴力を伴うとか、または、国民生活に重大な障害をもたらす具体的危険が明白であるなど違法性の強い争議行為を違法性の強い行為によつてあおるなどした場合に限り刑罰の対象となるというのであつて、いわゆるD事件についての当裁判所大法廷判決の多数意見がさきに示した見解とほぼ同趣旨の見解を示しているのである。

ところで、憲法判断にさいして用いられる、いわゆる限定解釈は、憲法上の権利に対する法の規制が広汎にすぎて違憲の疑いがある場合に、もし、それが立法目的に反することなくして可能ならば、法の規定に限定を加えて解釈することによつて、当該法規の合憲性を認めるための手法として用いられるものである。

そして、その解釈により法文の一部に変更が加えられることとなつても、法の合理的解釈の範囲にとどまる限りは許されるのであるが、法文をすつかり書き改めてしまうような結果となることは、立法権を侵害するものであつて許さるべきではないのである。

さらにまた、その解釈の結果、犯罪構成要件が暖味なものとなるときは、いかなる行為が犯罪とされ、それにいかなる刑罰が科せられるものであるかを予め国民に告知することによつて、国民の行為の準則を明らかにするとともに、国家権力の専断的な刑罰権の行使から国民の人権を擁護することを趣意とする、かのマグナカルタに由来する罪刑法定主義にもとるものであり、ただに憲法三一条に違反するばかりでなく、国家権力を法の支配下におくとともに国民の遵法心に期待して法の支配する社会を実現しようとする民主国家の理念にも反することとなるのである。

このことは、大陸法的な犯罪構成要件の理論をもたない英米においても、つとに普通法上の厳格解釈の原理によつて、裁判所は、個々の事件について、法文の不明確を理由に法令の適用を拒否する手段を用いて、実質上法令の無効を宣言するのとひとしい実をあげてきたといわれているのであるが、とくに米国では、一世紀も前から法文の不明確を理由としてこれを無効とする理論が芽ばえ、一九〇〇年代にはいつてからは、国民の行為の準則に関する法令は、予め国民に公正に告知されることが必要で、そのためには 法文は明確に規定されなければならないとして、憲法修正五条、六条、一四条等の適正条項違反を理由に不明確な法文の無効を宣言する、いわゆる明確性の理論が判例法として確立され今日に及んでいるのである。

この法文の明確性は、憲法上の権利の行使に対する規制や刑罰法規のような国民の基本的権利・自由に関する法規については、とくに強く要請されなければならないことは当然である。

ところで、前記福岡高等裁判所判決は、あおり行為の対象となる争議行為の違法性の強弱を判定する基準の一つとして、「国民生活に対する重大障害」ということをあげている。同様にD事件判決の多数意見は、「社会の通念に反して不当に長期に及ぶなど国民生活に重大な支障」といつている。
しかし、国民生活に重大な障害とか支障とかいう基準はすこぶる漠然とした抽象的なものであつて、はたしてどの程度の障害、支障が重大とされるのか、これを判定する者の主観的な、時としては恣意的な判断に委ねられるものであつて、そのような弾力性に富む伸縮自在な基準は、刑罰法規の構成要件の輪郭内容を極めて暖味ならしめるものといわざるをえない。
また、D事件判決の多数意見のように「社会の通念に反し不当に長期に及ぶなど」という例示が示されているとしても、どの程度の時間的継続が不当とされるのか、これまた甚だ不明確な要件といわざるをえないばかりでなく、そのうえ「社会の通念に照らし」という一般条項を構成要件のなかにとりこんでいることは、却てその不明確性を増すばかりである。

したがつて、かような基準を示された国民は、自己の行為が限界線を越えるものでないとして許されるかどうかを予測することができず、法律専門家である弁護士、検察官、裁判官ですら客観的な判定基準を発見することに当惑し(いわゆるA事件の差戻し後の東京高裁昭和四一年(う)第二六〇五号同四二年九月六日判決・刑集二〇巻五二六頁参照)、罰則適用の限界を画することができないばかりでなく、民事上、行政上の制裁との限界もまた不明確であつて、法の安定性・確実性が著しくそこなわれることとなる。
現に全国の事実審裁判所の判決においても、「国民生活に重大な障害」に関する判断が区々にわかれて統一性を欠いているのが今日の実情なのである。

さらにまた、右のような限定解釈は、罰則の適用される場合を制限したかのようにみえるのであるが、それに示されているような抽象的基準では、前記判決が志向したところとはおよそ逆の方向にも作用することがないとも限らない。
けだし、法文の不明確は法の恣意的解釈への道をひらく危険があるからである。

もつとも、右の基準の明確な確立は、今後の判例の集積にまてばよいとの反論もあろう。
最近の、カナダの連邦公務員関係法、アメリカのペンシルバニヤ州の公務員労使関係法およびハワイ州公法は、重要職務に従事する公務員についてのみ争議行為を禁止しているのであるが、それらの立法に対する、職務の重要性・非重要性を区別することは困難であるとの批判に対して、裁判所の判例の集積による解決が最も妥当であるとの反論もみられる。
しかし、右の諸立法においては、別に第三者機関による重要職務の指定判定の制度があつて、それによつて重要公務の範囲が一応は形式的に明確にされる建前なのであるから、その指定判定に争いがあるとき裁判所の判断をまつということのようである。
すなわち、それは、重要職務に従事する公務員の範囲を主体の面から限定するものであつて、行為の態様による限定ではないのである。
「国民生活に重大な障害」の有無というような行為の態様の基準の明確な確立は、むしろ、判例の集積による方法にはなじまないというべきであろう。

およそ国民の行為の準則は、裁判時においてではなく、行為の時点においてすでに明確にされていなければならない。また、終局判決をまたなければ明確にならないような基準は、基準なきにひとしく、国民を長く不安定な状態におくこととなる。国民は各自それぞれの判断にしたがつて行動するほかなく、かくては法秩序の混乱はとうてい免れないであろう。

憲法問題を含む法令の解釈にさいしては、いたずらに既成の法概念・法技術にとらわれて、とざされた視野のなかでの形式的な憲法理解におちいつてはならないことはいうまでもないことであり、また、絶えず進展する社会の流動性と複雑化とに対処しうるためには、犯罪構成要件がつねに客観的・記述的な概念にとどまることはできず、価値的要素を含んだ規範的なものへと深化されることも必要である。
さらに、正義衡平、信義誠実、公序良俗、社会通念等々の、もともとは私法の領域で発達した一般条項の概念が、法解釈の補充的原理として具体的事件に妥当する法の発見に寄与するところがあることも否定できない。しかしながら、あまりにも抽象的・概括的な構成要件の設定は、法の行為規範、裁判規範としての機能を失なわしめるものであり、いわんや、安易簡便な一般条項を犯罪構成要件のなかにとりこむことは極力これを避けなければならない。第二次大戦前のドイツ法学界において、一般条項がいともたやすく遊戯のように労働法を征服したとか、一般条項は個々の犯罪構成要件をのりこえてしまう傾向をもつとかと、強く指摘した警告的な主張がなされたことが思いあわされるのである。

法の規定が、その文面からは一義的にしか解釈することができず、しかも憲法上許される必要最小限度を超えた規制がなされていると判断せざるをえないならば、たとえ立法目的が合憲であるとしても、その法は違憲とされなければならない。
しかるに、国公法一一〇条一項一七号についての前記のような限定解釈は、それを避けようとして詳密な理論を展開したのであるが、惜しむらくは、その理論の実際的適用について前述のような重大な疑義を包蔵するうえに、その限定解釈の結果もたらされた同条の構成要件の不明確性は、憲法三一条に違反するものであり、また、立法目的に反して法の規定をほとんど空洞化するにいたらしめたことは、法文をすつかり書き改めたも同然で、限定解釈の限度を逸脱するものといわざるをえないのである。

wikipediaの医業類似行為のページでは

医業類似行為 - Wikipedia

この判例に対しては、人の健康に害を及ぼすおそれがあるか否かは一概に判断できない場合が多く、法は抽象的に有害である可能性があるものを一律に禁止しているのであり、健康に害を及ぼすおそれがあることを認定する必要はなく、そのように理解しても憲法22条に違反しないという批判も強い。

また、この判決が出た当時は憲法訴訟論が本格的に論じられておらず、違憲審査基準につき不十分な議論しかされていなかった当時のものであるとして、先例としての価値がどれだけあるか疑問であるとの指摘もされている(無登録で医薬品を販売していたとして旧薬事法違反で起訴された事案につき、最大判昭和40年7月14日刑集19巻5号554頁を参照)。

と後年の判例を見る限りでは、昭和35年判決に先例の価値がどれだけあるか、疑問ではある。